広報にじ52号-電子ブック
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佐藤さんは爆心地から1.7㎞の場所にある比治山で被爆されました。―当時15歳。わしは、神石から出て広島市比治山にある、広島師範学校の予科生として寮生活を送っとった。8月6日の朝も、いつものように6時30分に起床。体操を済ませて、ご飯を食べかけると空襲警報が鳴り、すぐに防空壕へ入った。しばらくすると警報が解除され、また寮へ戻ってご飯を食べた。食べ終えて2階へ上がったその瞬間、バーンと目の前が真っ白になり、建物と一緒に身体が落ちていくのがわかった。建物の下敷きになって気を失い、それから何時間埋まっとったか、わからん。ようやく目が覚め、「このままではいけん!」と思い、声の限り叫んだんじゃが、助けに来てくれる人はおらん。それでも、どうにか自力で隙間から抜け出すことができた。起き上がってみると、見渡す限り家や建物は潰れており、駅の方はゴウゴウと燃えとった。周りでは「助けてくれー」と唸る声がそこらじゅうで聞こえる。助けてあげたいけど、建物の下に埋まっとるわけじゃから、一人ではどうすることもできんかった。◆神石高原町原爆被爆者協議会 神石支部佐さ藤とう 守つかしさんその後、佐藤さんはケガをした友人を連れて、爆心地から遠い宇品の病院へと向かいます。―治療してもらえると聞き、ケガをした友だちを連れて宇品へ行ったんよ。その友だちのケガはひどくてね。顔は血だらけで目が片方見えん言う、腕も負傷しとるから血が出んように一生懸命自分で握っとった。お腹は、横に15㎝くらい破れ、そこから腸が出とる。それをわしが腹へ押し込んで、出てこんように上と下の皮膚を掴んで一緒に歩いたんよ。友だちもしんどいから「うえっ」とえずくんよ。その度にぐわっと出るから、それを押し込みながら、何時間歩いたかわからんぐらい歩き続けた。そうして、ようやく病院へたどり着いたんじゃが、病院の中も外も人でいっぱいで、それ以上入れる状態じゃなかった。外では軍事用トラックの荷台へ山のようにたくさんの人を積んで、だーっと降ろしてはまた積みに行っていた。亡くなった人、生きていても動けない人、助けを求める人、だれもどうしようもできない状況。あの苦しい、ひどい光景は、いつまで経っても忘れることはできんよ。それにケガの治療といっても、赤チンみたいなものを付けるぐらいのこと。それを友だちの傷口へ付けてあげて。その時友だちに「おい、お前も背中に穴があいとるで」と言われ、そこで初めて自分もケガをしとることに気がついたんよ。両腕を上げてみると背中で何かブスブスブスブスと音がして、肺の方から背中へ息が漏れとるようじゃった。市内では治療できる状況ではなかったから、8日には神石へ戻ってね。それからの3カ月半はケガの治療のため、2カ所の病院へ毎日通い続けた。体調を崩した時期もあったけど、今も元気で居られるのは本当に不思議なことじゃと思う。最後に、佐藤さんの想いを語ってくださいました。―あの当時、飲む物も食べる物もなく、自由もなく、みんな窮屈に生きとった。そんな時代しか知らず、戦争で苦しんで亡くなっていった友に、一瞬でも今の平和な生活をさせてあげたい。それが、わしの心からの思いなんよ。戦争の惨めな姿を見とったら、人間である以上あんなバカげた、本当に見苦しいことはできんはずじゃ。原爆や水爆という戦争には、女性も子供も年寄りも関係無く、一瞬で全てを奪うんじゃから。そんな姿を知っていて、これを使えばどうなるかわかっとるんだから、どの国の人であっても人間である以上、原爆や水爆を使うような戦争はせんと思う。それでもするのは、よっぽど鬼でなければできんと思うよ。わしは人間の良心を信じたい。被爆七十二年平和を考える【取材後記】平和な世界を築くために大事なことは“自分さえ良ければ”という生き方ではなく,地球に暮らす同じ人類としてお互いに理解し合う,穏やかな心だと話してくださいました。佐藤さんの「人間の良心を信じたい」その想いが胸にささりました。佐藤 守さん14広報にじ No.52
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